絶対安全剃刀乙女

思ったことを書き連ねるブログです

どうせどこにも行けないのなら

こんばんは
自律神経がバグってきている。
このブログ読んでる人いるんですかね。
最近の近況(馬から落馬
吉田豪SHOWROOMの番組で後藤まりこがゲストに出ていた回を見ました。
かなり面白かったです。
番組内容としては、吉田豪後藤まりこが、お酒を飲みながらグダグダと駄弁るだけなのですが、どんどん酔っ払っていく後藤まりこさんが良かったです。
やたらと「ムカつくんすよーっ」と発して、そのたびに何がムカつくんですか?と吉田豪に聞かれるのですが、そのムカつくことが逐一わかることばかりで、あれだけムカつくことを言えて、ムカつくことを音楽でも何でも発散して受け入れてもらえるのは良いなと思いました。
勿論、ものすごく苦労してきただろうなぁ…と思うし、今も大変なのだろうとは思うのですが、受け皿があるってことは大変重要ですよね。
受け皿ほしかったな…と、今更になって思うことがよくあるのですが、自分で作らないと出来ないのが現実であり、受け皿っぽく見せる人や居場所なんて、100パー搾取されるところですからね…。世知辛い世の中…。

まぁ、そんな泣き言はどうでもいいんですけど、私、人生迷走中でして、どうにもならないなという状態になってしまっているのですが、客観的にみればこうしたらいいじゃないと言われるレベルには楽勝なのかもしれないのですが、体と心がついていかない以上、本当にどうしようもないといいますか。

タイトルにしたandymoriのハッピーエンドという曲には「どうせどこにも行けないのなら ずっとここにいてもいいんだよ」という歌詞があるのですけど、本当にこの曲が憎らしいほど好きで嫌いです。

出ていきたいのです。駅の改札から外へ。
要は、自分の世界から社会へと繋がりたいのです。それがゆるくあろうが、偽物であろうが、他者から見たら不健全と言われようが。

一人でハッピーエンドを迎える人生なんてのは寂しいのです。それでもいいよと歌える彼らは、ちゃんと人生を生きてきたんだろうなと思うし、だからこそ、そうは生きてこれなかった人たちを肯定しているのだとも思うのですが、それは駄目では?それは違うのでは?という疑念が湧いて頭から離れないのです。

動かなければいけないと色んな人が言っています。
自ら動かなければ何も始まらない、と。

確かにそれはそうですが、動いたからと言って始まる人生ばかりでないのも事実なんです。

でも動かない限りは何も得られないのも事実なんです。

その繰り返しで疲れてしまいます。何もなさずに消えていくのが私の人生さ…と諦めて生きていくことを最近は強く思うようになりました。こんなものなのだろうなと。

だって動くべきときに動けない人ですからね。

何を書きたいのかというと、こういう諦めている人の感覚をダサいとかそれが人生だとか否定や肯定をする人がいるけど、それは違うんじゃないのか?ということなんですけども…。

ハッピーエンドの歌詞は否定も肯定もせずに、納得はいかなくともそれ以上できないなら無理しなくていいよ…という慰めなのですよね。
私が書いているのは、そういう慰めではないてすが、決して今の現状を否定も肯定もしたくないのですよね。
ただ、そういう状態である。ということだけを認めて、あとはやれるときにやって、やれなかったら、まぁそんなもんだよなって諦めて流れに身を任せるしかないのですよね。

色々とゴチャゴチャと人生について語る人は居ますが、努力も諦めも全て自分の意思だと言い切ることって難しいと思うのです。

確かに自分で行動をして、自分で責任をとる。それが大人だ!と言う人や信念はありますけど、そんな信念もっても、駄目なときは駄目なんですよね。

言い訳ではなく、流れというのはあるし、乗れようが乗れなかろうが、世界は勝手に回るし、どうせどこにも乗れないのなら、ずっとここにいるしかないんですよね。
ああ無情なり。無常なり。
とかなんとか書いてますが、またわけわからなくなってきました。

もう駄目なモードに入ってしまっているので、ブログ終わりにします。
ではまた