絶対安全剃刀乙女

思ったことを書き連ねるブログです

しっかりとした気持ちでいたい

こんばんは
お久しぶりです。

ブログのお時間がやってまいりました。

ブログ書くのってつまんねぇ〜〜〜
というかネタがない&面白くまとめられないのが駄目なんですよね。

最近もウダウダとグダグダとダラダラとしています。

最近流行りの疫病に一切触れず書きたいこと書きますね。

具体的に名前は出さないのですけども、インスタグラムで有名になった詩人(?)の方で、そのポエムが出版され(表紙が口のズレたニコちゃんマーク)そこそこ本屋で見かけたり、いい評判を見るのですが、その人のポエムが相田みつをよりゾワッとするほど嫌なんですよね。

もうこれは単なる悪口だと思うのですが、確かにそういった慰め系のポエムに需要があるから売れるのはわかりますし、それを読む人を非難したりするつもりはないです。

ただ、なんというか、もっと、もう少しだけ、考えないのかな…?(自分で)
と盲目にありがたがっている読者に対しては思ってしまうし、作者に対しては、わかっててやってるなら商売上手だな〜と思うし、素でやってるなら、絶対に触れたらいかんのだろうな…と思ってしまいます。

当たり前のことや、お説教臭いことや、慰めというものは私も好きなものは好きです。

ただ、それは背中を押してくれるほどの力強さを見いだせる独自性や、着眼点の面白さや、説得力のある人生の見えてくる理屈があるものだけなんですよね。

それがエレカシだったりシロップだったりタイトルのカネコアヤノだったり…

そういう自己啓発本やポエムを読んでる人って、そもそも言語能力が低くないですか?(突然の喧嘩腰)(特大ブーメラン)というよりも、そういう本が売れちゃう世の中ってどうですか?

私は、別にケチをつけるつもりはないですけど、絶対に自ら進んでは読まないし、読んでしまった場合は本当に力が湧くものを見ます…。

上手い言葉で表現できないので私も同族嫌悪なのかもしれないのですが、そういった当たり前すぎることを平凡な言葉でいうだけの作品がありがたがられる風潮にはモヤモヤとしてしまいます。私としては、もっと自分の中で考えた上で感動して、行動して、また考えて、ず〜っと考えたことを更新して生きていきたい。すみません、完全にこれは意識高いことだけ言いました。

そこまでいかずとも、ありきたり(なおかつ欺瞞的だったり綺麗事)な言葉に感動してしまうようにはなりたくない。自分の感性を信用していたいです。(余談ですが、ちょい前のエレカシや宮本ソロの何曲かは、ちょっとそのきらいがあって、え…となりましたが)

みたいな話がしたかったのでした。

みなさんもその本が目に入ったら読んでみてください。感動なんてしないでね。

タイトルに人の言葉を借りといて自分の言葉で語れよみたいなこと言うのクソ卑怯だしダサいなと思うんですが、私の実力はまだここまでなので、そこはなんとか頑張るしかないです。

では

日常に生きる少女

おはようございます
お久しぶりの更新になります。
残念ながら生きてます。自分の作った自分の世界の中にこもって生きてます。

一つ前の記事はかなり前に書いたやつをあげただけなので、今の私の心境とは違うかもしれません。

最近は本当にぼちぼちやっております。
毎日毎日どうやってこの先、生きていこうという不安にかられそうな気持ちを抑えて、やれることをやろうと思いつつも、欲に負けてダラダラと堕落した生活をしたり、医者に通ったり、めちゃくちゃなことを繰り返してます。

ブログを書いてない間にたくさん書きたいことがあったのですが、ありすぎて書ききれないので辞めておきます。

最近は音楽をあまり聴いてません。
というか音楽を聴いても何も感じないようになってしまった(そういう薬を飲んでいるため)

でも少し前にニコ生でシロップのライブ中継を見てて、イマジンを聴いた時に、ナンバガの日常に生きる少女を思い出して、すぐさまYouTubeで聴いてしまったのですが、日常に生きるって難しいよなと痛感しました。

イマジンは日常に生きる情景を憧れる男の歌なんですけど、日常に生きる少女は、自分は音楽の世界で生き少女は日常に生き、それを正しいと歌うことで、正しい生き方と自らの人生の空疎さを叫ぶという解釈をしております。

どちらも日常に身を置けていない人生を生きるのってつれぇ〜という曲だと思っているのですが、最後にイマジンはすべてを美しいと肯定し、日常に生きる少女は最後に空気の冷たさに気づくのです。

これって、日常に生きているということでは?今を、瞬間を生きているということでは?となるし、日常に生きるということは、概念や思想や空想やその他もろもろの雑念をふっとばして、今、感じられることをそのままに感じ続けるということの繰り返しなんだよなと思います。

というようなことを小沢健二の新曲を聴いていておもいました。

そんな感じです。では

僕は強くなれるのかな

こんばんは

クソみたいな体調不良を持て余して、クソみたいな日々を過ごしていました。

明日にでも死にたい、死んでも良い人生です。

嫌な事件が起こりまくってますね。

人を酷く傷つけても冗談のつもりだったwとか言えちゃうような人間が平気で人の上にたったり、出世して人生成功していくんですよね。

アホくさい。

まともな人から死んでいったり壊れていく世界なんじゃないのかと思うことばかりです。

早くみなさんも馬鹿馬鹿しい世界やめてワイヤードの世界に行きましょう。(lain感)

死ねないことに気付いて 当たり前にたそがれて

こんにちは
syrup16gのサブスク解禁されました!!

その上にアルバム一つ一つに関係者からのコメントやファンからのコメントを受け付けており感動しました…。

佐藤さん(元シロップのベース)のコメントとキタダさんのコメントと中畑さんのコメントには、ちょっとグッときてしまいました。

パープルムカデのタイトルの由来はずっと誤魔化されてきたので、実際はなんともほんわかした理由で笑ってしまいました。

ファンの方々のコメントも熱量がすごく、そのとおりなんですよ!言語化が絶妙すぎる…!と言いたくなるものが多く、自分の体験とシロップの音楽を照らし合わせている人や、音楽的な分析をする方や、とにかく愛に満ち溢れていて、レビューサイトを見ているだけで脳内麻薬が出まくって、サイト開設の日は眠れませんでした。


少し話は変わりますが、前回の記事(シニタイヤツハシネの記事)で、繊細なネット社会になりましたよ…と嘆くようなことを書いていましたが、あれは意見を全く聞かない同士で意見のベイブレードをする人たちについて思ったことなので、事件にまつわることとはあまり関係ありません。

あとネットで意見を戦わせるぐらいなら、散歩にでも行ったほうがマシだなと思う。(という意見の押し付け…)

ツイッターの騒ぎについて思うことは、前も書いたのですが、自分自身を否定も肯定もしないで、なるだけ違う人間を自分の中に存在させるというのが良いのではないか?…と私自身にも、ツイッターで怒る人にも言えるなと思います。

タイトルの「死ねないことに気付いて当たり前にたそがれて」という歌詞はsyrup16gの曲からなのですが、今の一億総死にたい社会にピッタリだと思うんですよね。(I can't )change the worldという曲です。

突然の曲語りします。

最初の「死ねないことに気付いて当たり前にたそがれて」と、死ねないことすら予期していて、かつ、その後にたそがれることすら当たり前だよな…と恐ろしいほど自分を冷たく客観視しているフレーズからするに、サビの「広い普通の心くれないか」という歌詞に対しても(普通ってなんだよ、広い心があれば救われるのかよ)という客観視をしててもおかしくないと思うんですよね。

最後のあたりで「人は何を望めばいい全てを失ってもなお」という歌詞があるのですが、結局は「広い普通の心」を望んでいるのではなく、とりあえずの嘆きとして何度も繰り返し祈りのように唱えられているだけなのであって、本当に自分の問題を解決するために必要な望みではないのでは?という意味も含んでいるのだと思っています。

自分も世界も変えられない、と嘆いて「広い普通の心」なんていう嘘くさいものにすがるしかない状況を、とても冷静かつ、重々しく扱った素晴らしい曲だと思います。

最近のツイッターを見ていると、「余裕が足りていない」だの「常識的な人は〜」だの「変えなくてはいけない」なんて言葉をよく見かけるのですが、それが本当に必要なことなのか?と、この曲を聞くたびに思うんですよね。

何を望めばいい?という自分の個人的な望みすら誰かに希求してしまう現状、というのは中々に抜け出せないものなのですが、この曲を聴くと、なんでかわからないですが、広い普通の心くれないかと思いつつ、狭い自分の心に対する甘めの目線を持てるようになるのですよね(私の個人的な感想と解釈です)

syrup16gは基本的に、自分に厳しいことを言っているようで、厳しくしてしまう自分をも、まぁそんな自分も居るよね…と甘く許容してしまう部分が「良くも悪くも」持てるようになる作品が多いと思うので、「一人でしね」という言葉に少しだけ共感しつつも、自分自身としては、何でこんな目に合わなきゃならないんだよ本当は死にたくなんてないんだよ…と思っている人はぜひ聴いてほしいです。

何か1ミリでも響くものがあれば幸いです。
あなたも患者になりましょう…。

という布教ブログはここらへんで終わりにします。
相変わらず文章が下手すぎる…。

ではまたブログで

シニタイヤツハシネ

こんばんは
最近は何だか物騒なことが多いですね。

つったとこで私なんて関係ない人間なので、何を言ったところで余計なことしか言えないので、黙って募金などをするのが最善の策でしょう。

色々と事件が起きると毎回そうしたいのですが、テレビはもちろんツイッターもあまり見たくないんですよね。
影響を受けちゃうからというより、識者ぶった人間が増えるのが嫌といいますか。

お前ら何を知ってるんだよというか、お前らが何を救えるんだよ?と思ってしまう。

結局お前らコンテンツとして安全圏から消費して良い気持ちになってやがるとか思うんですけど、それを言ってしまったら私も同じように安全圏からゴチャゴチャいう人たちと変わらないんですよね。

まあ変わらないですよね。色々と。

というかタイトルが物騒ですよね。
ピーズの曲なのですが、この曲をちゃんと聴けばわかるとは思うのですが、別に冷たい意味で言っているわけではないと思います。
むしろその逆です。

なんていうか、でもタイトルにしといて何だよと思うんですけど、人様の生き死にについてああだこうだ言うの(曲は自分自身に向けたのだとしても)あんまり良くないですよね。

ツイッター見てると毎回10個くらいは、余計なお世話だよばーかと言いたくなるようなツイートが流れてくるんですけど(フォローしてないが、いいねで流れたり、誰と誰がフォローしてますという謎の基準で流れてくる)他人と自分の意見なんて基本的に合わないのだから、それをすり合わせるようなことをSNSで発信するのって火種しか生まないような気がします…。まぁ好きに使うものですが。


人に意見を言うことって、もっと重みがないと駄目だと思うんですよね。それはもちろんブログを書いている私自身もそうなのですが。

重みっていうのは、批判される覚悟のことです。誤解される覚悟のことです。安易には取り下げない覚悟のことです。

これを守らずに自分が批判されたら、ピーピー泣いて周りに同意を求める人や、誤解されたらさせたで、私は意図してないけど不愉快にさせたのならすみませんと自分の過失を認めなかったり、こんなこと言ってすみませんとすぐに謝ってまたほとんど同じこと繰り返す人等、めちゃくちゃ居ますよね…。
まぁ最後は私なんですけども…。


覚悟のない意見をネットの海に放つことのリスクを甘く見すぎてたり、意見に限らず、覚悟のない他人への嘲笑やおふざけをしている人もたくさん居ますよね…。
というか現実がそんな態度でも許されるからネットでも似たような態度で居るのだとは思います。

しかし、ネットは本当に思っている以上に誰が見てるかわからないので(このブログもめちゃくちゃ近所の人や元同級生や私も知らな誰かに見られているとは覚悟はしてます)
現実と同じ態度でいると、まぁ荒れるし、良く思わない人たちは出てくるし、そこで争うことで何らかの問題は生まれてしまいますよね…。

一昔前みたく、スルー推奨とか嫌なら見るな!とか荒らしにはかまうな!というネチケット的なものを守る人なんて、殆どいない気がします。
どんどん悪いものは火種になるし、それが激化しないように卑劣に卑劣になっていってるのも垣間見えますし…。ネットは今や現実より現実です。


最近のネット社会は、現実以上に態度も言葉も扱いも前以上に丁寧にしないといけないフェーズに入ったんだろうなと思います。

繊細な時代ですね…。

もうだいぶタイトルも、中身も暴言を吐いているこのブログ、昔のネット文化に浸っていた人間の生きてる化石状態なのですが、まぁ続けられるだけ続けようとは思います。


そんなこんなで、何にもまとめず突然に終わります。

またブログで。

どうせどこにも行けないのなら

こんばんは
自律神経がバグってきている。
このブログ読んでる人いるんですかね。
最近の近況(馬から落馬
吉田豪SHOWROOMの番組で後藤まりこがゲストに出ていた回を見ました。
かなり面白かったです。
番組内容としては、吉田豪後藤まりこが、お酒を飲みながらグダグダと駄弁るだけなのですが、どんどん酔っ払っていく後藤まりこさんが良かったです。
やたらと「ムカつくんすよーっ」と発して、そのたびに何がムカつくんですか?と吉田豪に聞かれるのですが、そのムカつくことが逐一わかることばかりで、あれだけムカつくことを言えて、ムカつくことを音楽でも何でも発散して受け入れてもらえるのは良いなと思いました。
勿論、ものすごく苦労してきただろうなぁ…と思うし、今も大変なのだろうとは思うのですが、受け皿があるってことは大変重要ですよね。
受け皿ほしかったな…と、今更になって思うことがよくあるのですが、自分で作らないと出来ないのが現実であり、受け皿っぽく見せる人や居場所なんて、100パー搾取されるところですからね…。世知辛い世の中…。

まぁ、そんな泣き言はどうでもいいんですけど、私、人生迷走中でして、どうにもならないなという状態になってしまっているのですが、客観的にみればこうしたらいいじゃないと言われるレベルには楽勝なのかもしれないのですが、体と心がついていかない以上、本当にどうしようもないといいますか。

タイトルにしたandymoriのハッピーエンドという曲には「どうせどこにも行けないのなら ずっとここにいてもいいんだよ」という歌詞があるのですけど、本当にこの曲が憎らしいほど好きで嫌いです。

出ていきたいのです。駅の改札から外へ。
要は、自分の世界から社会へと繋がりたいのです。それがゆるくあろうが、偽物であろうが、他者から見たら不健全と言われようが。

一人でハッピーエンドを迎える人生なんてのは寂しいのです。それでもいいよと歌える彼らは、ちゃんと人生を生きてきたんだろうなと思うし、だからこそ、そうは生きてこれなかった人たちを肯定しているのだとも思うのですが、それは駄目では?それは違うのでは?という疑念が湧いて頭から離れないのです。

動かなければいけないと色んな人が言っています。
自ら動かなければ何も始まらない、と。

確かにそれはそうですが、動いたからと言って始まる人生ばかりでないのも事実なんです。

でも動かない限りは何も得られないのも事実なんです。

その繰り返しで疲れてしまいます。何もなさずに消えていくのが私の人生さ…と諦めて生きていくことを最近は強く思うようになりました。こんなものなのだろうなと。

だって動くべきときに動けない人ですからね。

何を書きたいのかというと、こういう諦めている人の感覚をダサいとかそれが人生だとか否定や肯定をする人がいるけど、それは違うんじゃないのか?ということなんですけども…。

ハッピーエンドの歌詞は否定も肯定もせずに、納得はいかなくともそれ以上できないなら無理しなくていいよ…という慰めなのですよね。
私が書いているのは、そういう慰めではないてすが、決して今の現状を否定も肯定もしたくないのですよね。
ただ、そういう状態である。ということだけを認めて、あとはやれるときにやって、やれなかったら、まぁそんなもんだよなって諦めて流れに身を任せるしかないのですよね。

色々とゴチャゴチャと人生について語る人は居ますが、努力も諦めも全て自分の意思だと言い切ることって難しいと思うのです。

確かに自分で行動をして、自分で責任をとる。それが大人だ!と言う人や信念はありますけど、そんな信念もっても、駄目なときは駄目なんですよね。

言い訳ではなく、流れというのはあるし、乗れようが乗れなかろうが、世界は勝手に回るし、どうせどこにも乗れないのなら、ずっとここにいるしかないんですよね。
ああ無情なり。無常なり。
とかなんとか書いてますが、またわけわからなくなってきました。

もう駄目なモードに入ってしまっているので、ブログ終わりにします。
ではまた

これは冗談じゃねぇ 戦いの歌だ

こんばんは
相変わらずタイトルのチョイスが中二サブカル女丸出しですみません。でもパワーインザワールドいい曲なので聴いてください…。


とりあえずタイトルは今回のテーマにしたいことと繫がっているのですが、戦う歌とsyrup16gを語るために、よくブログに出てくる大森靖子エレカシ神聖かまってちゃんあたりを絡めて文章を書き散らしていこうかなと思います。読んでいただけたら幸いです。

戦いの歌と書きましたが、エレカシと言えばファイティングマンやパワーインザワールド
やとにかく戦え!と歌う曲が多いですよね。作詞作曲の宮本さんが何と戦っているのかというと、「地元のダンナ」の歌詞を見ればわかるようにいろんなものと戦っているのですが、根本としては社会(社会で生きる自分)vs(それに負けそうな)自分という構図が多めだと思っています。

次に大森靖子さんに関しては「女の子」として戦っている超歌手です。とにかく頑張っている女の子を応援したり(絶対彼女)や世間の価値観に疑問を呈する曲(マジックミラー、死神等)が多いですね。

次に神聖かまってちゃん、の子さんは自分の曲を日記と言っているのですが、の子さんの戦っている相手はあまり明確ではないのですが「昔のトラウマ」であったり「理不尽な境遇、運命」のように思える曲が多いと思います(夕方のピアノや学校に行きたくない等)

それで本題のシロップなのですが、何と戦っているのか本当にわかりにくいバンドだと思います。社会批判をするでもなく、既存の価値観を違うと言うわけでもなく、トラウマや境遇を嘆くわけでもなく、むしろ社会に適合しろよ、無理して生きてることもないよ、なんなら逃げでもいいよ。とまで歌っています。

それを傍から見たファンでない人は、甘ったれてるなぁとか、何に文句を言いたいんだよとか、お前のことなんて知らねぇよとか、○にたいなら○ねよとか(こういう書き込みをネットでよく見たので)思うかもしれません。

私も初めてシロップを聴いたときは、この歌っている人は何がいいんたいんだろう。何が苦しくてこんなだるそうでイライラとした音を鳴らしているのだろう…。と思いました。
(ちなみに高校時代に生活を聴いてそう思った)

シロップは生活のぼやきを綺麗なメロディーに乗せているんだ。別に言いたいことがあるような音楽ではないのだ。という意見もあるかもしれませんが、私はシロップは明らかに戦っているバンドだと思うのです。


何故かと言うと、再結成してからの曲の歌詞が明らかに意識的に変化しているな(謎の上から目線)と思えるからなのですが、じゃあ何が変化していて、何と戦っているのかというと、上手くコントロールできない自分自身だと思うのですよね。(ここがメンヘラ御用達と言われる所以だとは思うのですが…)

その上手くコントロール出来ない自分自身というものは、誰でも少なからず持っていると思うのですが、シロップは、とにかく視点(人称)の定まらない歌詞の曲が多いというか、詩的と言えばそうとも取れるのですが、そうではなく、自分の中に居る常識人やエゴや本能やらが混乱している状態を上手く表現しているものなのでは?と思えるのです。

例えば「手首」という曲があるのですが、最初に「くだらないこと言ってないで早く働けよ」と言ってくる人がでてきます。次に「ぬるい生活に溺れる魂よ それにまたしがみつくのさ」という言われている側らしき人の、やや客観的な主観が歌われます。
そしてBメロ(でいいのですかね)で「一生懸命生きている私にどんな罪があるんですか?」と突然の悲劇のヒロインが出現します。
そのあとに「いっぱいあるさ〜ていうかお前はなんでそこにいる」と詰める人が出てきます。
それでさっきの悲劇のヒロインらしき人が再び「そんなん言われても手首切る気になれないなぁ」と甘えたことを言います。

とりあえず曲を聴いて貰えればわかるのですが、この曲は登場人物が沢山いるのではなく、自分のなかに居る甘えた存在と、それを叱る常識的な存在と、客観的にみた自分を淡々と語る存在が出ているのだと思えます。

シロップの曲はデイパスにしても、明日を落としてもにしても、自分なのか他人に対して歌っているのかわかりにくい(わかりにくくしている)曲がいくつもあります。

そこで突然の心理学用語なのですが、心理学には自我境界という言葉があります。エヴァなどで聞いたことがある人はいるかもしれませんが、自分と他人との境界線ということです。「自分は自分、他人は他人」という感覚といえばわかりやすいかもしれません。
それは何に関係があるのかというと、この自我境界が曖昧な感覚を表現されているものがシロップの歌詞には多いと思えるのですよね。

とりあえず自我境界が曖昧になる理由は色々とあるので割愛しますが
「特別何があったというわけでもないが何となく生きづらい」と感じる人は割とこの自我境界が曖昧な人が多いのでは?と思います(私がそうなのですが…)

シロップの曲では、現実で他人に言われるような言葉(例えば常識的な価値観であったり、意地の悪い言葉であったり)を自分自身が自分自身に言っていることが多いです。

これは自我境界が曖昧な人にありがちなことなのですが、人の意見を自分の意見のように取り込んで、それをさも自分の意見かのように考え受け止めてしまうことがあります。
それから、自分の意見が相手にもわかるはずだから細かく言わなくともわかるだろう。という考えがあるので、前提条件を端折ってしまうというものもあります。

それでいうとシロップの歌詞には、ふんわりとした命令や疑問や謎の概念を語るようなものが多いのですが、何かを命令したり聞いている自分は世間の価値観に即した自分であり、それも自分であり、聞かれて困っている自分も自分なのだという自問自答の歌詞が特徴的であり、自我境界の曖昧さからくる自己矛盾や混乱を歌っているのだと解釈すると理解しやすくなる曲が多いのです。

話を戻しますが、シロップは戦っているバンドだと書きましたが、彼らが戦っているのはこれだ!といえるものではないのですが、混沌とした世界や自分のわからなさ。不安さ。自分という存在。なのではないですか?
みたいに書くとちょっと大げさかつ恥ずかしすぎるのですが、実体の掴みにくい生きづらさと戦っているバンドだと思うと納得できるかなと思います。

書いていて意味がわからなくなってきました。たぶん読んでも意味がわからないと思います。駄文長文すみませんでした。

ここらへんで終わりにします。
またブログで